KAZU1000’s blog 阪本研究所 SK laboratory

阪本研究所 SK laboratory 代表 Kazuyoshi Sakamoto 旅行・社寺巡り・古墳調査・じゃらん旅行記

「杵築神社」(きづきじんじゃ)「新福寺」奈良県大和郡山市

「杵築神社」(きづきじんじゃ)「新福寺」奈良県大和郡山市

 

この「杵築神社」(きづきじんじゃ)の鳥居をくぐると直ぐ左に「新福寺」の本堂があります。宗祖弘法大師の御教えを組み、信じ、近年では先々代佐々木瑞範和尚・先代義範和尚によって戦前戦後に亘り細々と守り継がれた、真言宗豊山派(総本山長谷寺)の小さな町の小さな寺院です。
 本寺は古来、僧侶の修行場であったり地域支配の殿様(片桐氏一族)の祈願所であり、加護を受けて維持・継承されてきたと思われます。平成28年10月に再建がされています。
奈良には「杵築神社」(きづきじんじゃ)の名を持つ神社が三十数社、奈良盆地の中程に集中するように配置されています。八坂神社は奈良県内の様々な場所にありますが、杵築神社だけが奈良盆地の低地部にあり、山間部の杵築神社はごく僅かです。この神社の由緒等は不明です。

 

 

 

 

住所:奈良県大和郡山市小林町236

 

アクセス:大和小泉駅から約500m

 

 

 

【杵築神社】(きづきじんじゃ)奈良県大和郡山市

奈良県大和郡山市にある【杵築神社】(きづきじんじゃ)です。この付近には同じ名前の神社がたくさんあります。この神社の境内にはブランコと鉄棒があります。
主祭神は「 素戔嗚命」(すさのうのみこと)、末社祭神 は「天児屋根命」(あめのこやねのみこと) 「星司大明神」。由緒等は不明です。
道を挟んで前に「光照寺」があります。

 

住所:奈良県大和郡山市司町1039

 

 

【八阪神社】(やさかじんじゃ)大和郡山市内

奈良県大和郡山市内の【八阪神社】(やさかじんじゃ)と思われます。鳥居に「八阪講座」と刻されています。由緒等は不明です。

 

 

 

ベンショ塚古墳【森常稲荷大明神】(もりつねいなりだいみょうじん)奈良市山町

ベンショ塚古墳【森常稲荷大明神】(もりつねいなりだいみょうじん)奈良市山町

 

ベンショ塚古墳は、奈良市南部の田園地帯、「帯解」エリアや「山辺の道・北」コースにも近い位置にある比較的はっきりとした形を持つ古墳。古墳時代中期(5世紀前半)に築造されたと言われるベンショ塚古墳は、全長70メートルに及ぶ前方後円墳となっています。なお、築造された時期には古墳の周りに「周濠」を持ったとされており、それを合わせたかつての全長は100メートルを越える規模であったと推定されています。平成初期には発掘調査が行われ、円筒埴輪列と3つに分かれた「埋葬施設」の存在が確認されたほか、革盾、短甲、また野球帽に似た形の眉庇付冑(まびさしつきかぶと)や馬具などが現地で出土しています。
現在も古墳は周辺の風景とは明らかに異なる「墳丘」の姿(古墳の後円部)をよく残していますが、墳丘の頂上には「森常稲荷神社」と呼ばれる神社が設けられているため、古墳であるということに気づきにくくなっています。神社は古墳の墳丘を登る部分に多くの鳥居が設けられており、墳丘の頂上で現在は木が生い茂っている部分には瓦葺の社殿がきちんと設けられています。

 

一般道路の脇から隣接する農地の細いあぜ道に入ると、鳥居が続く石段があり、石段を登った先には【森常稲荷大明神】(もりつねいなりだいみょうじん)の社殿(古墳の頂上部)があります。
鳥居がいくつもあるため、古墳ではなく単なる神社であると勘違いしてしまいそうになりますが、神社の存在は当然ながら古墳より後の歴史に付け加えられたものとなっています。

 

 

所在地: 奈良県奈良市山町 

 

アクセス:
JR、近鉄奈良駅から奈良交通バス「天理駅」・「下山」・「窪之庄」行き乗車、「下山」下車、南東に徒歩2分。又はJR、近鉄奈良駅から奈良交通バス「山村町」行き乗車、終点「山村町」下車、西に徒歩5分

 

 

【崇道天皇八島陵】 (すどうてんのうやしまりょう) 奈良市八島町

崇道天皇八島陵】 (すどうてんのうやしまりょう) 奈良市八島町

 

藤原種継を暗殺したとの疑いをかけられた恒武天皇の弟早良(さわら)親王は、淡路への流罪の途中、身の潔白を証明するために食を断ち、みずからの命を断ちました。その死後、親王崇道天皇追号され、今もこの地でひっそりと祀られています。

 

住所: 奈良市八島町
アクセス :JR帯解駅から徒歩20分

 

 

【嶋田神社】(しまだじんじゃ)奈良市八島町

【嶋田神社】(しまだじんじゃ)奈良市八島町

 

祭神の神八井耳命神武天皇の皇子。その裔の仲臣子上は成務天皇の時代、尾張国島田の悪神征伐に功があり、島田姓を賜ったとの記録があるため、それにまつわる社名とみられている。平安末期より春日大社との関係が深くなり、当社と同じく式内社の赤穂神社、御前原石立命神社、天乃石吸神社と共に春日山中に勧請され、春日大社境内末社紀伊神社[脚注 1]四柱として祀られている。

 

当初の所在地は八島陵西の丘にあった、とする研究がある。室町期には八島陵の北、字クラノカヰトにあったとの記録が残り[7][8]、現在八島陵北西に字「蔵六垣内」が残る[9]。江戸期には崇道天皇社と共に八島陵内に鎮座していたとされる。1874年(明治8年)の春日大社の記録によると、当時の社殿は桁行69.7cm、梁行45.5cmの小さなものであったという。

 

1885年(明治18年)頃、当社と崇道天皇社が鎮座していたとされる現八島陵の地を、早良親王の御陵として整備することが決まり、1886年明治19年)、崇道天皇社御神体と社殿を下付され、現在の所在地に二神合祀の形で移築された。

 

 

所在地: 奈良県奈良市八島町325

 

 

【奈良県護国神社】(ならけんごこくじんじゃ)奈良県奈良市

奈良県護国神社】(ならけんごこくじんじゃ)は、奈良県奈良市にある神社(護国神社)である。明治維新から大東亜戦争までの国難に殉じた奈良県出身者29,110柱を祀る。
昭和14年(1939年)6月、奈良県知事を会長として護国神社建設奉賛会が組織され、昭和15年10月に創立を許可されて造営を開始、昭和17年(1942年)に竣工・鎮座し、内務大臣指定護国神社となった。大東亜戦争後のGHQ占領時代、附近の古名よりとった「高円神社(たかまどじんじゃ)」に改称していた。

 

3月末から4月始めの椿の時期には「椿祭り」が行われる。

 

 

所在地 :奈良県奈良市古市町1984