「杵築神社」(きづきじんじゃ)「新福寺」奈良県大和郡山市
この「杵築神社」(きづきじんじゃ)の鳥居をくぐると直ぐ左に「新福寺」の本堂があります。宗祖弘法大師の御教えを組み、信じ、近年では先々代佐々木瑞範和尚・先代義範和尚によって戦前戦後に亘り細々と守り継がれた、真言宗豊山派(総本山長谷寺)の小さな町の小さな寺院です。
本寺は古来、僧侶の修行場であったり地域支配の殿様(片桐氏一族)の祈願所であり、加護を受けて維持・継承されてきたと思われます。平成28年10月に再建がされています。
奈良には「杵築神社」(きづきじんじゃ)の名を持つ神社が三十数社、奈良盆地の中程に集中するように配置されています。八坂神社は奈良県内の様々な場所にありますが、杵築神社だけが奈良盆地の低地部にあり、山間部の杵築神社はごく僅かです。この神社の由緒等は不明です。
アクセス:大和小泉駅から約500m
ベンショ塚古墳【森常稲荷大明神】(もりつねいなりだいみょうじん)奈良市山町
ベンショ塚古墳【森常稲荷大明神】(もりつねいなりだいみょうじん)奈良市山町
ベンショ塚古墳は、奈良市南部の田園地帯、「帯解」エリアや「山辺の道・北」コースにも近い位置にある比較的はっきりとした形を持つ古墳。古墳時代中期(5世紀前半)に築造されたと言われるベンショ塚古墳は、全長70メートルに及ぶ前方後円墳となっています。なお、築造された時期には古墳の周りに「周濠」を持ったとされており、それを合わせたかつての全長は100メートルを越える規模であったと推定されています。平成初期には発掘調査が行われ、円筒埴輪列と3つに分かれた「埋葬施設」の存在が確認されたほか、革盾、短甲、また野球帽に似た形の眉庇付冑(まびさしつきかぶと)や馬具などが現地で出土しています。
現在も古墳は周辺の風景とは明らかに異なる「墳丘」の姿(古墳の後円部)をよく残していますが、墳丘の頂上には「森常稲荷神社」と呼ばれる神社が設けられているため、古墳であるということに気づきにくくなっています。神社は古墳の墳丘を登る部分に多くの鳥居が設けられており、墳丘の頂上で現在は木が生い茂っている部分には瓦葺の社殿がきちんと設けられています。
一般道路の脇から隣接する農地の細いあぜ道に入ると、鳥居が続く石段があり、石段を登った先には【森常稲荷大明神】(もりつねいなりだいみょうじん)の社殿(古墳の頂上部)があります。
鳥居がいくつもあるため、古墳ではなく単なる神社であると勘違いしてしまいそうになりますが、神社の存在は当然ながら古墳より後の歴史に付け加えられたものとなっています。
アクセス:
JR、近鉄奈良駅から奈良交通バス「天理駅」・「下山」・「窪之庄」行き乗車、「下山」下車、南東に徒歩2分。又はJR、近鉄奈良駅から奈良交通バス「山村町」行き乗車、終点「山村町」下車、西に徒歩5分
【嶋田神社】(しまだじんじゃ)奈良市八島町
【嶋田神社】(しまだじんじゃ)奈良市八島町
祭神の神八井耳命は神武天皇の皇子。その裔の仲臣子上は成務天皇の時代、尾張国島田の悪神征伐に功があり、島田姓を賜ったとの記録があるため、それにまつわる社名とみられている。平安末期より春日大社との関係が深くなり、当社と同じく式内社の赤穂神社、御前原石立命神社、天乃石吸神社と共に春日山中に勧請され、春日大社境内末社の紀伊神社[脚注 1]四柱として祀られている。
当初の所在地は八島陵西の丘にあった、とする研究がある。室町期には八島陵の北、字クラノカヰトにあったとの記録が残り[7][8]、現在八島陵北西に字「蔵六垣内」が残る[9]。江戸期には崇道天皇社と共に八島陵内に鎮座していたとされる。1874年(明治8年)の春日大社の記録によると、当時の社殿は桁行69.7cm、梁行45.5cmの小さなものであったという。
1885年(明治18年)頃、当社と崇道天皇社が鎮座していたとされる現八島陵の地を、早良親王の御陵として整備することが決まり、1886年(明治19年)、崇道天皇社の御神体と社殿を下付され、現在の所在地に二神合祀の形で移築された。