【城山姥不動明王】(しろやまうばふどうみょうおう)大阪府羽曳野市
【城山姥不動明王】(しろやまうばふどうみょうおう)大阪府羽曳野市
安閑天皇陵(高屋築山古墳)内に本丸を置いていた高屋城(河内国守護職畠山家の居城)跡にある【城山姥不動明王】(しろやまうばふどうみょうおう)です。「高屋築山古墳」(たかやつきやまこふん)とは、大阪府羽曳野市古市5丁目にある古墳。形状は前方後円墳で古市古墳群の最南端に位置します。実際の被葬者は明らかではないですが、宮内庁により「古市高屋丘陵(ふるちのたかやのおかのみさぎ)」として第27代安閑天皇の陵に治定されています。
【城山姥不動明王】(しろやまうばふどうみょうおう)の縁起について;
「抑も呼称城山とは地元現存高野街道不動坂上東西五町南北八町い及ぶ高台一帯で古来源家を始祖とする畠山累代の高屋城址にして南北朝争乱時代の攻防巨據点たりし居城も既に壊滅廃墟正平二年このかた六百余年経過の今日夏草の老い茂るつわ者共の夢の跡を偲ぶ古城の史跡地を呼称するものである。 さて移築の現姥不動明王(旧称伯母不動)は嘗ての居城唯一の守護神で歴代城主の慰霊の祖神として奉祀せる本街道の道祖神として今尚香煙絶ゆる事なき歴然たるを縁起とす。依つて爰に既述著名の城跡と関連併記せしものにして往来頻繁の本街道を去来する老若男女の来拝萬徳の道祖神たらしめんとするにあり。因に本碑文は地元旧家森田家秘蔵の文献より抜粋せるものなり。 」(標石より)
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【雄略陵古墳】(ゆうりゃくりょうこふん)大阪府羽曳野市
「雄略天皇」(ゆうりゃくてんのう)は5世紀後半の大王で、当時の中国王朝へ称号を求めるために遣いを送った倭の五王の一人、「武」として知られている。また、「雄略天皇」(ゆうりゃくてんのう)は、第21代天皇(在位:安康天皇3年11月13日 - 雄略天皇23年8月7日)。大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ、大泊瀬幼武尊 おおはつせわかたけるのみこと とも)、大長谷若建命、大長谷王(古事記)、大悪天皇、有徳天皇とも。
『宋書』『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王武に比定される。その倭王武の上表文には周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されており、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘や熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘を「獲加多支鹵大王、すなわちワカタケル大王と解して、その証とする説が有力である。
『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に雄略天皇が掲げられていることから、まだ朝廷としての組織は未熟ではあったものの、雄略朝をヤマト王権の勢力が拡大強化された歴史的な画期であったと古代の人々が捉えていたとみられる。
アクセス: 近鉄南大阪線「高鷲駅」下車 北へ600m
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【壺井八幡宮】(つぼいはちまんぐう)大阪府羽曳野市 (2/2)
武家棟梁・河内源氏の氏神である。八幡神として誉田別尊(応神天皇)・仲哀天皇・神功皇后を主祭神とし、玉織姫・武内宿禰を配祀する。
源義家(八幡太郎義家)が愛用したとされる黒韋威胴丸(くろかわおどしどうまる・重要文化財)や天光丸の太刀(重要美術品)などが伝わっている。社家の高木氏は、河内源氏・八幡太郎義家の六男(五男とする見方もある)・源義時(陸奥六郎義時)の子孫である。 宮内の楠は大阪みどりの百選に選定されている。一帯は河内源氏の本拠地で、寛仁4年(1020年)に源頼信が河内国国司に任じられて以降、頼信・頼義・義家の3代にわたって当地に居住し、河内源氏と呼ばれるようになった。
康平7年(1064年)5月15日、前九年の役に戦勝して凱旋した源頼義が、現在地である河内国香呂峰の私邸の東側に社殿を造営し、河内源氏の氏神である石清水八幡宮(京都府八幡市)を勧請したのが当社の始りである。この時、地名を香呂峰から壺井と改め、壺井八幡宮を武家源氏棟梁の河内源氏の総氏神とした。近くには河内源氏の氏寺・通法寺がある。壺井八幡宮本殿の奥には頼信・頼義・義家、義綱、義光を祀る摂社・壺井権現社(壺井神社)がある。
【壺井八幡宮】(つぼいはちまんぐう)大阪府羽曳野市 (1/2)
武家棟梁・河内源氏の氏神である。八幡神として誉田別尊(応神天皇)・仲哀天皇・神功皇后を主祭神とし、玉織姫・武内宿禰を配祀する。
源義家(八幡太郎義家)が愛用したとされる黒韋威胴丸(くろかわおどしどうまる・重要文化財)や天光丸の太刀(重要美術品)などが伝わっている。社家の高木氏は、河内源氏・八幡太郎義家の六男(五男とする見方もある)・源義時(陸奥六郎義時)の子孫である。 宮内の楠は大阪みどりの百選に選定されている。一帯は河内源氏の本拠地で、寛仁4年(1020年)に源頼信が河内国国司に任じられて以降、頼信・頼義・義家の3代にわたって当地に居住し、河内源氏と呼ばれるようになった。
康平7年(1064年)5月15日、前九年の役に戦勝して凱旋した源頼義が、現在地である河内国香呂峰の私邸の東側に社殿を造営し、河内源氏の氏神である石清水八幡宮(京都府八幡市)を勧請したのが当社の始りである。この時、地名を香呂峰から壺井と改め、壺井八幡宮を武家源氏棟梁の河内源氏の総氏神とした。近くには河内源氏の氏寺・通法寺がある。壺井八幡宮本殿の奥には頼信・頼義・義家、義綱、義光を祀る摂社・壺井権現社(壺井神社)がある。
【碓井八坂神社】(うすいやさかじんじゃ)と「史跡 井徳院址」/ 羽曳野市
【碓井八坂神社】(うすいやさかじんじゃ)と「史跡 井徳院址」/ 大阪府羽曳野市
「白鳥神社」から近鉄南大阪線の東側を北へ向かって進んで集落の切れ目近くに鎮座しています。【碓井八坂神社】(うすいやさかじんじゃ)は、もとは「井徳院」と言われた奈良時代の寺の鎮守であったか、あるいは古市神社からの分社であると考えられ、延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)にも記されていないので、創建はおそらく平安中期より以後と推定される。現社殿は西面のもので、祭神は素戔嗚命となっていて、渡来系の神であることがわかる。現在の碓井地区の名称は古代にあった「清泉唯井(せいせんうすい)」の井戸から起こっている。碓井神社の東方50m附近一帯は奈良朝のころ僧「行基」によって創建されたという「井徳院」があり、境内にあった碓型の井戸からは良質の清水が湧き出していたらしい。その水は萬病によく利くとのことで、遠方からも参詣者が多かったと伝えられている。その後、南北朝の騒乱で兵火を受けて消失し廃寺となった。
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